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Yoshiaki Kawashima

川島良彰

コーヒーハンター

Profile

コーヒー界のインディ・ジョーンズ

極上のものは、心地よく、忘れがたい。
すべてのファウストたちに紹介したいが、
世間に知られるのが惜しいような気にもなる。
今回は、そんなとっておきのコーヒーと、
コーヒーに人生を捧げたあるファウストの物語。

コーヒーの世界を変える男。

「幻のコーヒーハンター」。あるいは「コーヒー界のインディ・ジョーンズ」。
日本のみならずコーヒーに関わる多くの国の人々が、尊敬と共に彼のことをこう呼ぶ。
ある時は中米の密林を、ある時はアフリカの高原を、ある時はアラブの荒野を、そしてまたある時は大洋に浮かぶ島々を、深い情熱に突き動かされ駆け巡ってきた。その姿は、まさにインディ・ジョーンズと呼ぶに相応しい。そして彼が探し求める宝は、失われた本物のコーヒーだ。


コーヒーのグラン クリュ

川島良彰。昨年スタートした「Grand Cru Caféグラン クリュ カフェ」の生みの親。ワインの世界に倣い、優れた農園から特に環境の良い畑を選定し、特別な条件の元にのみ育成、収穫、精選されたコーヒーを使用して、極上の特級豆を作り出す。日本で通常話題になるのは焙煎のことばかりだが、コーヒーの木の育成から始まって加工にも運搬にも保存にも「一切の妥協を排した理想のコーヒー」を実現できるのは、コーヒー一筋に生きてきた川島を除いて他にはいないだろう。
グラン クリュ カフェとして世に送り出す川島のコーヒー豆は希少性が高く手間暇かけたものだけに、当然高価で、消費者も限定されてしまう。しかしこの試み自体がコーヒーの良さを守り、コーヒー産業の底上げをし、環境と人を守るという大いなる挑戦を伴っているため、グラン クリュ カフェの顧客は決してそれが高いものではない、と納得できることだろう。もちろん元麻布のコーヒーセラーに、葉巻やワインのように大切に保管された豆たちを見てもそう思うに違いない。
そして何より、その味。セラーのある元麻布のMi Cafetoで、ふくよかに香る一杯を飲んでみれば、本当に良いものがいかに清々しい余韻を残すかということに思い至る。焙煎後の新鮮な豆はまだ生きている。呼吸で炭酸ガスが発生し続け、淹れるときには粉が炭酸ガスの泡を含み、まるで生き物のように膨む。呼吸する黒褐色の泡の中に、「魔法の時間」が立ち上る。その魔法は今まで飲んだどのコーヒーとも違う良質さで心に残り、その心地よさだけが不思議に、いつまでも沈澱していく。

グラン クリュ カフェの豆は、セラーの中ではまだ淡緑色の生豆の状態だ。彼らは真空パックされて、快適な棚の中でひっそりと呼び出されるのを待っている。そうして口にされる直前に、注意深く焙煎を行い、シャンパンボトルに詰められて主人の元に送り出される。瓶の中では、発生する炭酸ガスが充満し、栓を抜く際には「ポン!」と勢いよく晴れやかな音がする。それは世界各地で生産者と川島が育てた夢が凝縮され、いよいよ空中に解き放たれるというときに上げる喜びの声だ。

Tasete the Real

国内線「JALファーストクラス」で期間限定サービス

グラン クリュ カフェが、9月1日より30日の間、国内線「JALファーストクラス」の機内で提供される。通常Mi Cafetoで提供するのとはひと味違うフレンチプレスで淹れたグラン クリュ カフェ。これまで「飛行機ではコーヒーよりもお酒」だった皆さん、次回の旅は是非JALで「まだ出逢ったことのないコーヒー」を堪能してみてください!

http://www.jal.co.jp/inflight/dom/f/meal/grandcru/

コーヒーとの出会い

川島は静岡のコーヒー焙煎業を営む家の長男として生まれた。物心付くころから、コーヒーの香りに囲まれて育ち、遊び場だった実家の倉庫には産地から運ばれる異国情緒あふれる様々なデザインの麻袋があった。言葉は分からないが無性にロマンを書き立てられて、いつしか中米へ行ってコーヒーを育てる専門家になりたいという夢を思い描くようになった。小学高学年の頃のことだ。

「ませた子供だったんですよね。その頃家に出入りしていた大学生に影響されホセ・フェリシアーノなどを聞いては中南米に憧れて、もう住むしかないと思っていました。」
ホセ・フェリシアーノはプエルトリコ出身の盲目のラテン・ギタリスト。「ラテンが体にビッタシ来る」感覚を覚えてしまった、早熟な川島少年である。
「家を継ぐからには産地に行ってコーヒー栽培の勉強をしたい、とその頃から思っていたんです。6年生の時にはどうしても中南米に行きたくて、ブラジル大使館に「コーヒー農園で働きたい」と手紙を出したんですよね。親に見つかりこっぴどく怒られました」。
まだ海外旅行も珍しかった時代に、小学生がいきなり移住やコーヒー留学を目指したのだ。
「今度は『中学から中南米に留学したい』と親に言ったら当然反対されまして、『せめて中学は日本で卒業しろ』と。で中学を卒業する頃にまた『留学する』というと『高校を卒業してから』となって。
当時から独立心旺盛な子供だった。留学を反対されて仕方なく入学したのは地元の名門私立校。しかしそこから日本の大学に進学し、経済や経営を学ぶという選択肢は彼の中にはなかった。
「東京の大学に行くよりコーヒーの勉強をしたかった。コーヒーは農産物。経済や経営を学んでも美味しいコーヒーは作れない」

エルサルバドルへ

両親に反対され続けた留学に、突如光明が射したのは高校2年の時。コーヒー業界の現地視察ツアーでメキシコの自治大学を訪れた父が、その素晴らしい環境を見て留学を許してくれたのだ。父と共に、つてのあったエルサルバドル駐日大使を訪れ、メキシコ留学の相談に行った。 「その大使はエルサルバドルの『14家族』と呼ばれる有力者一族の出身だったんです。メキシコの自治大学を紹介してもらおうと思って行ったのが、最終的には、上智大学と同じ修道会が経営するエルサルバドルの大学を紹介してもらい、彼が身元引受人になってくれるという話になり、ホームステイ先として彼の妹さんの家を手配までしてくれたんです」

コーヒーを学びたいという思いは胸に秘め、とりあえずエルサルバドルでの大学生活を手に入れた。両親も確かな身元引受人の後ろ盾を得て、安心して彼を送りだしたようだった。
「親の条件はその大学に行くことでしたから、コーヒーの勉強をするつもりなんて言えなかった。でも、とにかく向こうに行ってしまえば何とかなると思っていました。そうしてサルバドルに住み始めて半年もしないうちに国立コーヒー研究所を探し当て、学生など受け入れてもないのに、約1か月座り込んで研修生になったんです。」
その研究所がブラジル、コロンビアと並ぶ世界三大コーヒー研究所だと知ったのは後の話となる。
「博士たちが集まって研究しているところにノコノコ出掛けて行って、毎日通い続けて所長室に座り込んでアピールしてね。ついに根負けした所長は若手の農学博士を呼び出して『こいつの為に2年間の特別カリキュラムを作ってやってくれ』と言ってくれた。もちろん僕の身元引受人の名前が効いていたと思いますが、それは本当に贅沢なカリキュラムでした。そうして僕はその研究所最初で最後の研修生になったんです。」
カリキュラムは農学部での農業全般の研究に加え、病害、虫害、遺伝子と多岐にわたる内容で、それぞれの博士の元3ヶ月間毎にマンツーマンのトレーニングを受けることができた。主にフィールドワークや実験のアシスタントとして、博士達に手取り足取りの指導を受けながら学んだ。

優雅な生活、そして内戦

「研究所ももちろん楽しかったんですが、サルバドルでの生活も素晴らしかった。静岡の田舎から出て行ったのは18歳の時、70年代でまだ日本が貧しかった頃です。一方首都サンサルバドルの町は、町中に花が咲き乱れてすごく綺麗で、それは清々しい気候でね。加えて滞在先は『14家族』のお嬢さんの家だったから、いきなり女中さんが二人つき、週末は、今週は海の別荘、来週は湖の別荘というように過ごして。そこで水上スキーを教えてもらったり、別世界のようでした」。


そんな中米での優雅な生活に、不穏な空気が流れ始めた。60年代は中米一ともいわれる安定と繁栄がもたらされていたエルサルバドルだが、1969年ホンジュラスとの戦争以降、政治経済は徐々に不安定化。軍部や警察をはじめとする極右勢力のテロが吹き荒れ、79年には政権が軍事クーデターで倒され、革命評議会による暫定政府が発足。しかし極右勢力のテロは収まらず、80年にはロメロ大司教をはじめとする聖職者までが次々に殺害され、その状況に反発した左翼ゲリラ組織が抵抗運動をおこし内戦が勃発した。米ソ冷戦も背景にしたこの内戦は1992年の国連仲介による和平協定締結まで約12年もの間続くことになる。
「内戦の間は本当に怖かったですね。何度も死にそこなったし、何度も銃を向けられたし、一度は本当に機関銃を向けられ打たれたこともありますよ」 ゲリラたちが街に時限爆弾を仕掛け、その後は銃撃戦になる。そんなゲリラ戦の中を車で研究所に通う日常。その頃には川島は研修生としての訓練を終え、コーヒー研究所の研究員に迎え入れられていた。同時に、大学に通わず研究所にいることが親に知れ、勘当同然になっていた。当時川島は生活費を稼ぐために日本の報道番組の内戦レポートのコーディネイトなどもしたという。
「筑紫哲也さんの報道番組で、筑紫さんと一緒に、普段は絶対行かないようなゲリラ戦の前線に1週間かけて取材に行きました。難民キャンプに入るのを拒否して家にとどまる家族たちを取材するために、戦場の広場の向こうにいる彼らのところまで赤十字の旗を掲げて歩いて行ったんです。どこから銃弾が飛んで来てもおかしくない場所で、でもあの当時は若かったし、毎日死体が町にゴロゴロしているような状況で、もう麻痺していたんでしょうね。今思えばいちばん怖い経験だった」

内戦はひどくなる一方だった。1979年に革命が起き、80年には農地解放、川島の身元引受人になってくれた元駐日大使も暗殺されてしまった。川島が研究員になった81年頃には親しかった友人たちが7人も次々に暗殺された。川島は後ろ盾を失い、自身の身の安全も危ぶまれロスに一時疎開していたこともある。
「食べていけないからね、ロスではタコス屋で働いていました。それ以来ブリトーを焼くのは上手いですよ」

上島さんとの出会い

そんなブリトーを焼いていたある日、UCC上島珈琲株式会社の上島忠雄会長(創業者)が川島を訪ねてきた。曰く、「ジャマイカでブルーマウンテン農園の開発に着手したい。栽培のわかる社員がいないから、是非来てほしい」と。
「日本の会社としては初めての試みでしたから、そんなことを考えている人が日本にいるのか、と感心しました。けれど、僕はエルサルバドルの研究所に戻るつもりだったのでお断りしたんです。すると彼は熱く自分の夢を語り、どうしても来てほしいと言ってくれて、内戦がひどくなって帰国するときには必ず連絡をしてくれと。それから彼はずっと僕のポジションを開けて待っていてくれた」

その後すぐに研究所に戻ったものの内戦はますます激化していた。川島の専任教授も命を狙われて国外へ亡命。1981年にとうとう川島も帰国することになり、UCCに入社。川島は上島会長念願のコーヒー園に次々に着手することとなる。ジャマイカに7年。ハワイ・コナに14年。その間スマトラやマダガスカルのコーヒー園も開発していく。UCCが販売する幻の高級コーヒー「ブルボン・ポワントゥ」の復活も川島の手掛けた仕事のひとつだ。
「マダガスカルの東にあるレユニオン島には、かつてルイ15世が愛飲したブルボン種という素晴らしいコーヒーがあったんです。限りなくコーヒーの原種に近い品種ですが、19世紀のサイクロンの影響やサトウキビ農業に押され栽培が途絶えていた。それをなんとか復活させたくて、レユニオンの政府に掛けあって実現させることができたんです。最初は半信半疑だった農業庁の役人も、今ではレユニオン島特産物として栽培に力を入れるようになっています」
考古学者よろしく、文献に登場し、伝説のように研究者の間で話題にのぼる「幻のコーヒー」を探し出し、その復活に情熱を燃やす。川島が「コーヒー界のインディ・ジョーンズ」「幻のコーヒーハンター」と呼ばれるゆえんだ。
「上島達司社長(当時)も僕のやりたいことを理解し支えてくれました。社員の間では、川島は自由にして、と随分反発もあったと思いますね」。
川島のコーヒーに捧げる夢が、同時に現地の農業の在り方を変え、豊さをもたらすこともできると気がついたのはこの頃かもしれない。

コーヒーハンターの人生

コーヒーハンターという言葉には、ジャングルの奥地を分け入って希少な生物を探し出す学者のような響きがあるが、川島のコーヒーハンティングは期待を裏切らないものだ。

「エチオピアでは海抜4500mの台地を超えた先に、野生のエチオピア・コーヒーがあるというのを聞きつけて、それを探しに行きました。やっと車が通れるような所でふと横を見ると狼がいるような場所で、その直前にはインフルエンザにかかってふらふらになりながら山登りをしてね」
またブルーナイルの源流であるタナ湖に浮かぶ島で、かつてエチオピア正教の修道士たちが植えたというコーヒーを探しに行ったこともある。非常に泡立ちが良く、エスプレッソに向いていると囁かれていた。
「現地の人々は日に何度も、そのまま煮立てた素朴な味わいのコーヒーを飲んでいました。
素敵なところでしょう。」


 

川島はそう言って、数々の冒険を映すアルバムをめくる。

 

「マダガスカルではランクルに乗って幻のコーヒーを探していたんだけど、川に橋も掛っていないような場所でね、いかだに車を乗せてロープで引っ張って川を渡ったり」

 

 

「これはイエメン。イエメンは最高に楽しかったなあ。この時はモカ・マタリの源流を探しに行ったんです」
イエメンの銘柄であるモカ・マタリ。日本の情報ではその源流や定義はとても曖昧なものだった。「モカ」とはアラビア半島にある港の名前で、そこから出荷されたコーヒーが「モカ」と呼ばれるようになったと言われているが、アメリカでは単に「美味しいコーヒー」を指す言葉として「モカ」と言う場合もあるし、エチオピアにも「モカのハラー」という銘柄がある。

「よくわからないからモカ・マタリの源流を探しに、イエメンまでとにかく出かけてみようと。丁度ラマダンの最中で夜の町はお祭り騒ぎ。偶然知り合った人に「僕は本物のモカ・マタリを探しに来た」と言うと、なんとその人はマタリという名で、マタリ村の出身だと言うんです。そしてマタリ村に行けばマタリのコーヒーがあるよ、と! マタリさんが沢山住む村の名前がマタリだったんです。しかも彼は、そのマタリ村の村長の息子だった。」

不思議な出会いに導かれるままに村に着くと、そこは海抜2500m級の乾いた高地。こんなところで本当にコーヒーが採れるのかというくらいの、カラカラの大地が続いていた。
「そこにそのコーヒーの木が生えていました」
「カラカラの地面に、手で掘ったような水路が絶えずチョロチョロと流れていて、その水がコーヒーの木を濡らしていた。土地の言葉でマタリというのは「恵み」や「雨」という意味でした。それは強烈な体験でしたね」
そんな乾いた高地にコーヒーが生えているのを見たのは初めてだった。しかもそのコーヒーは、とても美味しかった。初めは雲をつかむような気持ちで、わずかな情報と出会いを頼りに辿り着いた土地。そこで思いがけず温かな歓待を受け、共にラマダンを過ごし、念願のコーヒーも発見し、あまりに楽しくてターバンをしたままでロンドンまで行ってしまったという。まるでコーヒーの神様が、川島の頭上で微笑んでいるかのような話。

コロンビア、北サンタンデール

いくつもの希少な品種を発掘し、完璧な農園を探す旅を続け、現在、川島のグラン クリュ カフェで扱うコーヒーを生産する農園は6か所。グアテマラのサン・セバスティアン農園に始まり、エルサルバドルのセルバ・ネグラ農園、パナマのコトワ農園にカルメン農園、コロンビアのランチェリア農園とベジャビスタ農園だ。それぞれに個性的な希少な豆を、川島のこだわりの条件に沿って生産しているが、中でもコロンビアの辺境の地にあるランチェリアは、オーナーがたった一人で生産している、特別に収穫量が少ない農園だ。

「昔のコロンビアマイルドを再現したくて、ずっと探していたんです。古い品種のティピカは、美味しいけれど病虫害に弱い上収穫量が少なくて、どんどんなくなってしまっている。で、この辺りにあるのではと目をつけたのがベネズエラ国境に近い北サンタンデール県サラサールの山岳地帯でした」。
そこは1800年代前半に宣教師が訪れ、最初にコロンビアコーヒーの商業的栽培と輸出が行われた土地だったが、4,5年前まで県都を一歩でるとそこには多くのゲリラがいたので、新しい技術や新しい品種は入っていないに違いないと考えた。
「事前調査や分析はきっちりとしますよ。そして山に入って、コーヒーを見ると立ち止まっては覗きに行って。そうして見つけたのがホセ・ダリオという男が作っていた純正のアラビカ種ティピカ亜種でした。彼の畑ではほとんど粗放農法で、1本ずつの収穫量はわずかですが、ものすごくいい実がついていた」
水も電気も通らないような辺境の小さな農園で、ダリオは化学肥料も農薬も一切使わない良質なコーヒーを育てていた。しかし品質は良くてもコーヒーの収穫高は非常に低く、相場に左右される立場の弱い生産者の暮らしはままならず。耐えかねた妻は2人の子供を連れて街に出て行ってしまったという。
「有機栽培でも、辺境すぎて認証がとれないような山の中。でも、僕はこの豆で本物のコロンビアコーヒーを作りたいと思い、ダリオに僕のスペック通りに作ってくれるように依頼しました。以来、僕とダリオの間では例え相場が暴落しても価格は変わりません。品質に対してお金を払っているわけですからね。その代わり僕のスペックは厳しいですよ。でも、彼は安心して品質にこだわったいいコーヒーを作り続けることができるんです」。

巷でよく言う「フェアトレード認証」は農業協同組合に対して認証されるもので、ダリオのような辺境の個人農園主には与えられない。しかし川島の行っているのは、品質を伴う究極のフェアトレードだ。
先日再びダリオの元を訪れたとき、彼の農園には息子の姿があった。川島との仕事がきっかけで、息子が「お父さんと一緒にコーヒーを作りたい」と言ったのだという。生活が安定し、精神的にも余裕ができたのだろう、ダリオは以前よりずっと生き生きとして見えたという。年に80kgしか採れないが、誰にも作れない美味しいコーヒーを作る――誇らしい仕事をしている父の姿は、息子の眼にどんなにか逞しく見えるに違いない。

コーヒーは農産物だ

川島のグラン クリュ カフェと、一般的なコーヒーの違いを、何と表現するか。
象徴的なひとことで言うと「農産物と工業製品」だ。
川島がことさらに口にするのは「コーヒーは農産物」という言葉。消費者にとってみれば、コーヒーは農産物で当たり前では? と言いたいところだが、現実はそうではない。

大量生産、低価格を実現するため、すべての過程で機械化と短縮化が進んだ結果、豆本来の味わいはことごとく破壊されている。それはもはや不自然に加工された「工業製品」のようだ、と川島は言う。加えて産地の名だけがブランド化し、品質に関係なく高値で売る市場ができてしまった。何よりも、品質を求めようとする市場がなかったこと。コーヒーの姿は知らない間に、まったく別のものになっていたと言っていいかも知れない。そしてその現象は「こだわりの珈琲」を出すと思われる高級ホテルやサロンにも及ぶ。
「ワインの世界では銘柄ごとの歴史や素性を消費者が分かって買いますよね。コーヒーの場合は、いちばん良い銘柄とされるブルーマウンテンでも、産地が山脈の北と南では全く質が違って、年間300万ポンド採れるブルーマウンテンにもピンからキリまである。業者内ではクラス分けがされている。けれど売る時はなぜか単に「ブルーマウンテン」となってしまう。生産者と消費者の間に距離があればあるほど、情報の乖離が生じるんです」
「問題点は、いい品質のものを作りたいと思う人がいても、その市場がないことです。
今は低価格商品の競争をマスコミが騒いでいるけれど、それを作るのに、絶対誰かが泣いているわけじゃないですか。そうでしょう? 安く売らなければ、安く仕入れなければ、というのはひずみが出ますよね。コーヒーにもそういう問題があって、国際相場が上がったとしても業者やスーパーは仕入れ値は絶対上げない、喫茶店だって1kg10円上げるのには大変なことなんです。でも、そういう世界が続いていったら、良いものはどんどんなくなってしまうし、良いものを作ろうとしている人は生き残れなくなるんです」
今まで誰も実現できなかった、ワインのように奥深いコーヒーの世界。毎日最高のものを飲むための、あるいは特別な日に人生を彩るための、そんなふうに楽しめるコーヒーがあってもいい。いや、ないのはおかしい、と思った。
「だから僕はすごく高価な、その変わりTop of topの品質で、最高においしいコーヒーを作るんです。それを作ればピラミッドができる。最高のもの、その次のグレード、というようにね。いいものにはお金をかけることが必要なんです。そうしなければ、コーヒーの文化の多様性は失われてしまう」

冒険や夢で、生きていくことは難しい。しかしその挑戦を諦めたら、失うものは測り知れない。それを知っているから、私たちはそれぞれの冒険を追求するのだろう。
川島は、まぎれもないファウストである。

 

 

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Yoshiaki Kawashima
川島良彰

コーヒーハンター


1956年静岡県の珈琲焙煎卸業の家に生まれる。
1975年高校卒業後、エルサルバドルホセ シメオン カニャス大学に留学。
国立コーヒー研究所に入所、内戦勃発後も同国に残りコーヒーの勉強を続ける。
1981年UCC上島珈琲に入社し、ジャマイカ、ハワイ、インドネシアでコーヒー農園を開発、各現地法人の社長・役員など歴任。マダガスカル島で、絶滅危惧種マスカロコフェアの保全保護に携わり、レユニオン島で絶滅したアラビカ種ブルボン・ポワントゥの発見・再生で同島のコーヒー産業を復活させる。コンサベーション・インターナショナルのコーヒープロジェクトに参画し、パナマで純正ティピカ種を発見し日本に紹介。
2003年帰国。2007年執行役員 農事調査室長を最後にUCCを退職し、株式会社コーヒーハンターズ<設立 代表取締役就任。日本サステイナブルコーヒー協会設立、理事長。『日本貿易振興機構(JETRO)』 コーヒーアドバイザー 。
2008年、Mi Cafeto(ミ・カフェート)設立。生産者と共に農園の中から真に優れたコーヒー豆だけを選別したGrand Cru Caféを販売開始。
著書に平凡社『コーヒーハンター 幻のブルボン・ポワントゥ復活』(平凡社、2008年)。
 

 

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